こ と ば



プロセス




曲を自分のものにしていくとき、
程度はともかく、
いくぶんかであっても、
その曲になっていく、というプロセスが起こる。
そして、いくぶんかであっても、
そのプロセスのさなかに湧いてしかたない、
曲を弾きたいという気持ち、、
お風呂に入っていても、早く出て弾きたいし、
キャンセルできるなら、どんなことでもキャンセルして弾きたい。
そのどうしようもない衝動、
たぶん、それはチャンスなのだと思う。
なんの? 音楽に素手でさわる、、
走っていく動物にさわりたかったら、
ぼんやり座ってはいられないように‥。
そして、やりかたがどうであろうと、上手でなかろうと、
さわった、ということは本人には偽りようがない。
それが、多くの人の語る
「魂からの表現は必ず伝わる」という言葉に通じるものなのでは
と最近思うのです。

2019.01.29





言葉のなかの音




シューベルト「楽興の時」は6つの小品で成っています。
ふとしたインスピレーションから生まれたと思われる一筆書きのような小品たちです。

「楽興の時」と「ペンキや」は、それぞれの軸をもつ、まったく別の作品で
今回わたしは初め、たんたんと回るふたつの歯車といった演目をめざしました。
でも、演ってみると、自然と音は、言葉によって表されているものになろうとします。
言葉なしで音が1曲通すときでさえ、ソロのときとは異なる、言葉のなかの音としての「楽興の時」になるのを感じます。

そして、「楽興の時」と「ペンキや」は共振もしています。
「ペンキや」のしんやの、ちょっとした才能と、それによって定められていく人生の流れは、シューベルトの、音楽の神様にとりつかれてマグマのように作品を生み出し夭逝する運命とそっと符合します。ひやっとするような空気が、ふたつの作品には共通して漂っています。

(2017年11月26日のコンサートの演目のひとつ "シューベルト「楽興の時」の断片による梨木香歩「ペンキや」" に寄せて書いたものから)

2017.11.12