こ と ば
春すぎて 夏来にけらし
学校にあがるかあがらないかの昭和のころ
女の子の名前は
子のつくものが多かった。
いま思えば
そうでない名前もどんどん増えてきていたけれど
当時のわたしの
仲の良かった女の子が久美子ちゃんで
彼女がとてもチャーミングだったからだろうか?
久美子ちゃんとか愛子ちゃんとか、、なんてかわいい名前なんだろう
と思っていた。
わたしの なつきという名前は
当時はいまよりもっと珍しかった。
よく一緒に遊ぶ男の子に、ゆうきくんという子がいて
なんだかあたしの名前は男の子みたいだな
と思っていた。
ひらがなというのも
不思議だった。だってみんないろいろな漢字がついている。
名前はともかくとして漢字は? 漢字はないの?
母に訊いたものだった。
あたしの名前は、漢字を付けるとしたらどんな字なの?
すると母は
漢字なら、夏来になるわね、と言うのだった。
呆然とした。
せめて「き」は希望の希とかではないのか。
そうだったら可愛げがあると思ったので。
いま思うと
当時のわたしは
自分のことを可愛くないと信じこんでいて
なんとかして可愛くありたかった、のだと思う、、、
* * *
なつきという名前は
母と父が
持統天皇の和歌
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
からとって
つけてくれた名前です。
5月、立夏のころに生まれたので。
母の父は、国語が専門の先生で、古典に造詣が深かった。
小さなころ持っていた
彫りの入った美しい摺鉢は
祖父に贈ってもらったものだったと思う。
戦時中の家族へのハガキなど
残されたものを読むと
その和歌のような素晴らしいリズム感に
いまでも痺れる。
ピアノも上手だった。祖父はわたしの誇りです。
わたしの思う、素晴らしい父性を祖父は備えていて
いまも心のなかでわたしに優しい言葉をかけてくれる。
そして母の母の家は、空海の十大弟子のひとりが建てたという
真言宗のお寺で
歌舞音曲に造詣の深い家だった。
わたしの名前は
そうした命の背景、受け継がれてきたものを
思い出させてくれる
だいじなものです。
* * *
10年以上前、菜月という字をあてて
アーティストネームにしていた時期がある。
どんどん弾き始めていたころでした。
そのころのわたしには、菜月という名前が
合っていた。
太陽と月でいうなら
月の力でどんどん弾いていました。
しかしある程度やり切ったところで
もういいやという気になって
この字を使うのをやめています。
そのころは
月の力などと考えていたわけではなく
付けたのもやめたのも
なんとなく
なのですが
この
なんとなく
の的確さにいまになって驚く。
そして
月ではなく太陽の力で生き
表現していくことを想起させてくれる字を
こんどはアーティストネームにしようかと
思ったとき
そうだった、夏が来るだった
と思い出しました。
夏が来るのは
紛れもなく太陽の廻りによるものだ。
そして、わたしの由来はそこにあったんだった。
世のなつきさんたちには
それぞれの意味合いがあるだろうけれど
わたしのなつきは夏来にほかならなかった。
* * *
そんなことごとを経て
いまは
夏来という名前をつかっています。
2025.1.3
プロセス
曲を自分のものにしていくとき、
程度はともかく、
いくぶんかであっても、
その曲になっていく、というプロセスが起こる。
そして、いくぶんかであっても、
そのプロセスのさなかに湧いてしかたない、
曲を弾きたいという気持ち、、
お風呂に入っていても、早く出て弾きたいし、
キャンセルできるなら、どんなことでもキャンセルして弾きたい。
そのどうしようもない衝動、
たぶん、それはチャンスなのだと思う。
なんの? 音楽に素手でさわる、、
走っていく動物にさわりたかったら、
ぼんやり座ってはいられないように‥。
そして、やりかたがどうであろうと、上手でなかろうと、
さわった、ということは本人には偽りようがない。
それが、多くの人の語る
「魂からの表現は必ず伝わる」という言葉に通じるものなのでは
と最近思うのです。
2019.01.29
言葉のなかの音
シューベルト「楽興の時」は6つの小品で成っています。
ふとしたインスピレーションから生まれたと思われる一筆書きのような小品たちです。
「楽興の時」と「ペンキや」は、それぞれの軸をもつ、まったく別の作品で
今回わたしは初め、たんたんと回るふたつの歯車といった演目をめざしました。
でも、演ってみると、自然と音は、言葉によって表されているものになろうとします。
言葉なしで音が1曲通すときでさえ、ソロのときとは異なる、言葉のなかの音としての「楽興の時」になるのを感じます。
そして、「楽興の時」と「ペンキや」は共振もしています。
「ペンキや」のしんやの、ちょっとした才能と、それによって定められていく人生の流れは、シューベルトの、音楽の神様にとりつかれてマグマのように作品を生み出し夭逝する運命とそっと符合します。ひやっとするような空気が、ふたつの作品には共通して漂っています。
(2017年11月26日のコンサートの演目のひとつ "シューベルト「楽興の時」の断片による梨木香歩「ペンキや」" に寄せて書いたものから)
2017.11.12